立派な石垣に囲まれた城跡は、急勾配の石畳が上へとつづいていました。登りきったところに本丸跡や天守閣などがありましたが、ひっそりとしていて、どっちかって言えば草木が生えるままにしてある自然公園といった趣。それにしても石垣は立派でした。
城内の一角にあったのが、本居宣長の旧宅。本居宣長が松阪の人だったとは、知りませんでした。
(思えば、今回の旅では無知を思い知ることばかり…。)
もとは城下の魚町というところにあった家を城内に移築したものだそうです。
良い風情でしたが、なぜか担当の人の姿が見えず、拝観のチャンスを逃しました。
観光客もいないし、管理者もいない。ユルユルだ〜〜。でも、そういうユルさがいい感じ。
御城番屋敷のすぐ脇の用水路。
そして、その前の路地。
こういう風情の町並みが保存されているのはいい。しかも、ここで日常生活が営まれているというのが、さらに
いい……けど、時折、自動車が行き交うと途端に興ざめしてしまう。人とは勝手なもので、そんなふうに車が
行き交うことこそが日常なのに、美しい古い町並みにあまりに日常的すぎる現代が入りこむと不快に思ったりする
わけです。本当に勝手だよ!せめて、無粋なコンビニの看板やチェーン店などが並んでいなかったことに感謝しな
くては。
松阪城の前に、殿町という風情のある一角がありました。ちなみに、市役所もすぐそばでした。
このあたりの町並みがまた、すごく良かった! 大好きになりました。
無知その2なのですけど、あの三井のルーツが松阪にあるってことも知りませんでした。
(それにしても、あまりにもさりげなさすぎるぞ、この三井発祥の地……。)
昨年、NHKの「龍馬伝」で三菱の祖、岩崎弥太郎についてはさんざんやってくれたせいもあって、三菱のルーツ
が高知にあるらしいということは頭に入ったのですが、「そういや三井って…?」と思うものの調べもせず。
(ちなみに、日本史で習ったはずなのですけど、私の受験科目は世界史だったので、日本史はサラリと流して
しまっていました。今さらながら反省するなあ。)
ここが三井家の旧宅だそうです。非公開です。
これを機に、三井の歴史を少し勉強しました。
三井家はもともと近江の国の武士で、六角氏に仕えていましたが、信長が六角氏を滅ぼしたために伊勢の国に逃れ、この松阪の地に落ち着いたのだそうです。それから武士を捨て、米や味噌を商う商売を始めたのですが、武士時代に「越後守」だったため、「三井越後屋」となり、やがてそこから「三越」となったとか。江戸時代になってからは木綿を商うようになり、さらに江戸に進出して呉服屋さんを開きました。
初代は松阪の地で味噌屋時代をきりもりした老母の世話をしていましたが、晩年は京都に屋敷を移し、西陣の織物の仕入れを仕切り、遠隔操作で江戸にいる息子に呉服屋の経営をやらせたそうです。
そんなことから、松阪は「松阪商人」というジャンルができるほど、江戸の昔には流通の要として栄えた土地なのだそうで。港もあるし、京都や大阪もそこそこ近いし、江戸へ出るにも船をすぐに仕立てられたからかな。
このあたりは、本当に落ち着いたステキな風情ある町でした。
歩いていても、飽きなかった。
どこまで行っても驚きがあり、安らぎがあり、さりげない日常があり。
ギスギスしたコンビニのまぶしさもなく、場ちがいな新しさもない。
自然に昔からつづいているものが、ただそこにある、という町のありかたがうらやましかったです。
ところで、散策していたら、急に土砂降りの雨が降り出しました。
午前中なのだから夕立とは呼べないけれど、まさにそんな感じ。
そのときちょうど、小津家のお屋敷の手前で履物屋さんで草履を物色していました。
(ひどい外反母趾なので、草履をサンダル代わりに履くのが好きなんです。)
履物屋さんの奥様が雨宿りを勧めてくださり、店の奥に腰掛けさせてもらって、しばらく雑談しました。優しそうなご主人も出てきて、このあたりでは一年中玄関先に「お飾り」を飾っておくこと、1月15日に町内で火をたいて焼くか(どんと焼きってやつだろうか?)、伊勢神宮に奉納するかして処分し、また新しいお飾りを玄関先に下げる、といったような風習を説明していただいたりしました。
履物屋の奥様。またいつか、寄らせてもらいます。
そうこうしているうちに雨も上がったので、元気よく次の目的地、伊賀へ向かって出発したのでした。
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