窓をあけると、静かな波の音とかすかな潮の香りが部屋の中へと入ってきました。
そのまま、窓を開け放って眠りました。肌寒いことはなかったです。
海水を温めたジャグジーでたっぷり体をあたためてから眠りましたし、実はここのところ寝付きが悪くて困っているので、リズミカルな波の音と少し涼しいくらいの室温が眠りを誘ってくれて気持ちよかったんです。
ちなみに、この日は疲れていたのでルームサービスを頼みました。
このシーフードカレーが絶品。次の日はちゃんとレストランへ行ってパスタ食べたけど、このシーフードカレーのほうがおいしかったかも。こんど行く機会があったら、毎晩これを頼もうかな。
翌朝の眺め。
ベッドに横たわったまま、ここの海が見えちゃう。
なんとも贅沢なことです。
さて、26日の月曜はいよいよ旅のメインイベント、伊勢神宮参拝。
父から特別参拝の券をあずかってきていました。遷宮のために寄進したものの、父はネクタイをしていなかったために参拝を許されなかったのだそうです。それで、祖母の形見のワンピースに、ちゃんとパンプスを履いて行きました。あいにくの雨模様だったのですが、雨のせいでむしろ荘厳な感じが強調されたような気がします。濡れた木々から発せられる芳香が何ともありがたい感じで、その中を歩むだけで清らかさが身に染み込んでいくようでした。
久しぶりに訪れた神宮は、入ったとたんにすごいオーラで迫ってきて、顔を上げて歩くことさえままならないくらいでした。わたしは緊張していました。だから、神宮の写真はあまりありません。写真を撮ることさえ思いつきませんでした。わたしは懸命に祈りました。こんなに全身全霊で祈ったことなど、かつてなかったと思います。まず外宮で父の名代であることを説明し、ふつうの参拝の人々が祈る垣根の内側へと入れてもらいました。神主さんに促され、玉砂利を踏みしめて静かに垣根の内側に入ったとき、足が震えるほどの「気」を感じました。ただならぬ気配がありました。めったに垣根の内側には入れないのだから、もっと細部までよく見ておけば良かったのだけれど、そんなこと、到底できそうにありませんでした。神主さんは脇に控えておられ、その瞬間、神とわたしの間には、内側の垣根があるだけで、何人たりともいなかったのですから。
緊張した参拝を終え、土宮(つちのみや)、風宮(かぜのみや)、多賀宮(たがのみや)など、別宮をすべて回ってお参りし終わったときでした。多賀宮からの石段を降りてきたら、ものすごい音がしました。
「団体客が一斉に合わせて柏手を打ったのかな」
そんなくだらない考えが頭をよぎりました。でも、そんなふうな乾いた音でした。石段を降りきったところで、すぐに何が起きたかがわかりました。
石段を降りたところに池と小川があり、その向こうに外宮の正宮のお宮があるのですが、その鳥居正面の大木がどおっと横倒しになって倒れていたんです。
倒れた大木は、池をわたってまっすぐ土宮の本殿に向かっていました。まるで、正宮の神様が土宮の神様と話し合うために池を渡る橋をかけたかのように見えました。
騒然とする観光客。
神の存在を肌で感じた出来事でした。
そのあと、内宮へ移動しました。予想どおり、こっちのほうがザワザワと混雑していました。参道を歩きながら声高に歯間ブラシの話をするおばさんたちや、「はい、ちーず!」と無邪気に写真撮り合う女の子たちや、正宮の真下までスマホ片手に歩く男の子などでいっぱいで、これまたすっかり写真を撮る気など失せてしまったわけですが。
思えば、神さまは江戸時代に伊勢参りの講が盛んだった頃から、何百年もこうした全国から集まる庶民を迎え入れてきたわけで、その心の広さたるや想像を絶するものがあります。太もも丸出しの女の子だろうと、肩からシャツがずり落ちそうな男の子だろうと、マナー無視で境内でビデオ撮りまくるおじさんだろうと、神さまは怒ることなく静かに受け入れてくださりつづけるわけで。
それにしても、これほど強い気が満ちた空間に身を置きながら、どうして観光客はああまで傍若無人にふるまえるのか、つくづく不思議。つまり、あの人たちは何も感じてないのかな。
五十鈴川は良い。本当にすばらしい。
清らかな水とともに、良い気が流れています。
ここにたたずんでいると、いろんな汚れが流れ落ちていくような気がしました。
内宮でも特別参拝をさせていただきました。
実は、こちらではわたしが着ていた祖母の形見のワンピース、きちんとしてきたつもりなのに、なんと神主さんからNGを出されてしまいした。
要するに、完全なる礼装が求められていたんです。
眉を寄せて「どうなさいますか?」と尋ねる若い神主さんが、これまたどうしたわけか、眉目秀麗の目元涼しき美青年。その出で立ちから、思わず「次の光源氏役にはぜひ推したい」などと、つまらない妄想がわき出して心乱れるわたし。そんなことを考えてる場合じゃないのに。
「差し障りがあるなら、隅で祈らせてください」
わたしはそう申し出て、頭を下げました。
ハンサムな神主さんは穏やかな口調で「では、かまいません」とおっしゃり、わたしを垣根の内側へと案内してくれました。
さすがに垣根の内側に立ったときの強い気の流れは、外宮より勝っていました。
またしてもわたしは顔を上げることができず、雨に打たれながら必死に祈りを捧げました。
外に出てようやく、張りつめた心がほぐれていきました。外宮と同様、ここでも別宮にはすべて立ち寄り、丁寧にお参りしてきました。
この神鶏がいるあたりに、「子安神社」がありました。ここにも参拝したのですが、ふしぎな小さい木の鳥居がいっぱいあって、「無事に赤ちゃんが生まれますように」などといった祈りが書かれていました。どうやらこれが絵馬のようなものの代わりらしく、出産関係の神様としては相当に人気のところだったようです。
伊勢詣での基本。
赤福というより至福。
おかげ横丁。
参拝あとの基本もしっかり押さえ、伊勢神宮をあとにしました。
やっぱり伊勢神宮はありがたいところです。
神さまは本当にいらっしゃいます。
翌日、わたしにタラソセラピーを施術してくれた女性が教えてくれたところによると、毎日1日には「ついたち餅」という特別なお餅を「赤福」が出すのだそうで、それを目当てに午前4時ぐらいから人の列ができるのだそうな。毎月季節に合ったフレイバーが楽しめるので、地元の人さえこの「ついたち餅」は楽しみにしているのだそうです。午前4時から並ぶのか。かなわないな…。
でも、次に伊勢神宮に参拝するときには、必ず早朝の静かな時間帯に行くつもりです。
そのあと、倭姫宮(やまとひめのみや)へも参拝しました。
ここは静かで良かったです。
誰もいなかった。静謐な時が流れていました。
神の森は粛々と歩むべきです。ここへ来て、ようやくそれが実現しました。神の森で呼吸させていただき、流れる良い気を全身に浴び、目に見えるもの、見えないものと静かな対話をする。そういうことがようやく叶いました。
伊勢にはぜひもういちど参りたいものです。
志摩への帰りに、二見が浦に寄りました。
ここには天敵「団体観光客」がいっぱいだったので、早々に逃げ出しました。
それも仕方ないけど。
夕暮れの海の眺めも格別でした。
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