この1週間に経験したことは人生でもっとも大きな出来事でした。極めてプライベートなことですが、自分のために書き記しておこうと思います。
7月30日に母が施設に入所しました。車椅子生活になってから、寝室にポータブルトイレを置いてなんとか自宅で暮らすようにしてきましたが、排泄のコントロールがうまくいかなくなりました。思えば、完全にトイレまで車椅子を押してやったり、時間を見て誘導したりが必要だったのに、同居家族の父はそれに気づかずにいました。私は別棟に住んでおり、仕事で留守にすることも多く、やはりそこまで弱っていることに気づかずにいました。足こぎで車椅子を動かしてトイレに行っていたのが、できなくなっていました。便失禁の回数が増え、その後始末に疲れ果てた父が「もう限界だ」と言って入所が決まりました。
ひとりになってから、急速に父の認知症の症状が進行しました。物忘れが激しい、は度を越し、合理的な判断ができなくなりました。以前から任意保険が未加入ではないかと疑いを抱くようになっていましたが、2台も車を所有していながら何年も未加入であることが明らかになり、それではいけないと何度も話しましたが耳を貸そうとしませんでした。
8月19日の金曜日、友人に教えられて、すぐに保険の加入手続きがしてもらえそうだという農協の共済窓口を訪ねました。父には車検証と免許証の持参を頼み、私が運転する車で行きました。途中までは素直に話を聞いていたものの、見積もりが提示され(ごく普通の任意保険の金額でした)、口座振替にするためには農協に預金口座を作る必要があるという話になった時点で急に態度を硬化させました。「保険なんてくだらねえ、農協の金もうけだろ。俺は事故なんか起こさねえよ!何十年運転してると思ってんだ!」と窓口でキレまくり、恥ずかしい思いをしました。やむなく、保険には入らず農協を出て、母がいる施設を訪ねました。その時点では「もう運転はしない。それなら保険に入る必要はないだろ?」と言ってました。
その日の夕食の席では車の話は避けていましたが、午前中に農協へ行ったこと、母を訪ねたことなど、思い出せないようでした。少なからずショックでした。
8月20日の土曜日、朝早くに父が軽トラを運転して出かけてしまいました。農協へ行ったことも忘れたくらいなので、やはり「もう運転はしない」と言ったことも忘れたのでしょう。もはやこれまでと思い、心を鬼にして車のキーを取り上げました。父は興奮して顔を真っ赤にし、奇声を上げながら手元にあった文鎮を投げつけてきました。私は玄関にいたので、素早く外へ逃げてドアを閉めたのですが、文鎮がドアにガツンと当たる音がしました。
本当は父と一緒にスーパーに買い物に行きたかったのです。前の晩の夕食の席で誘っていたんです。もう運転しなくなるのだから、不自由に感じるだろう、暑さの中を歩いて買い物に行くのも大変だろう。不便だと感じさせないように、これからは頻繁に一緒に買い物に行こうと思っていました。
ひとりでスーパーに行って帰ったあと、ランチの支度をしました。父がいる母屋へ呼びに行くと鍵がかかっていました。出かけたのだろうかと不安になり、合鍵で玄関を開けて「お昼、できたよ」と声をかけました。冷房が効いていました。靴もありました。でも返事はありませんでした。玄関先にスパナやレンチ、太い鎖、大きな鋼鉄の金づちなどが並べてありました。それを見た途端にイヤな気持ちになり、そのままドアを閉め、鍵もかけ直しておきました。
沈んだ気持ちのまま家にいてもつまらないので、みんみんを可愛がってくれている秦野の叔母を訪ねました。短い時間でしたが、叔母と話をしたり、みんみんを遊ばせているだけで、少し気持ちが楽になりました。暗くなる前に帰宅し、夕飯の支度をしました。母がいなくなってから、いつも6時過ぎには勝手口から父が来て、一緒に夕食を食べていました。その時間に勝手口が開く音がして、父が顔を出しました。食事はいらない、胃の具合が悪いから、と言いました。
8月21日の日曜日は台風9号襲来直前、まさに「嵐の前の静けさ」でした。夕方、事情を知る近所の男友だちTが来て、父と話をしてくれました。「運転はもうしないって言ってたよ。良かったね」とTは言い、どこで手に入れたのか、もぎたてのトウモロコシを2本手渡してくれました。「オヤジさんにもトウモロコシ持ってきたって言っといたから、茹でてやってよ」と笑顔で言ってくれました。その日は見事な夕焼けでした。ふだん通り6時過ぎに勝手口から現れた父を誘って、2階で一緒に夕焼けを眺めました。「きれいだな」と父は何度もつぶやいていました。富士山の脇に赤く染まった雲の隙間のようなところから青空がのぞいていて、その青がとりわけきれいだと言っていました。そんなふうに一緒に夕焼けを眺めたのは初めてのことでした。前日の不穏な空気を忘れました。あまりにも穏やかな時間で、これで父も運転を諦め、車のキーを奪われたことも忘れてくれるのではないかと、一瞬、錯覚してしまったのも無理ないことだったと思います。
8月22日の月曜日は予報どおり朝から大雨と風で荒れ模様でした。前日に父にはランチ用のパンや果物を買って渡してあったので、それを食べていてくれるだろう、家から出ないでいてくれるだろう、そんなふうに思っていました。仕事を終えて帰宅し、みんみんとの散歩も済ませてエプロンをかけ、いつものように夕食の支度にとりかかろうと思っていた5時半ごろ、父がふいに姿をあらわしました。「夕飯はいらない。胃が気持ち悪い」と言って、胃のあたりに手を当てました。おかゆを作って母屋に持っていってやるけど、と申し出たのですが、いらないと言いました。胃をカラッポにするのは良くないから、パンの残ってる分があったらそれを食べて、と言いましたら軽くうなずき、母屋に戻って行きました。それで自分だけで夕食をとり、入浴して就寝しました。
物音と人の声のようなもので目が覚めました。真っ暗でした。身を固くしてベッドの中で様子をうかがっていると、甲高いわめき声と激しい物音がしました。明らかに父の声でした。みんみんも目を覚まして、警戒して吠えたてました。「いい子だから。大丈夫だから。ここにいてね」と声をかけてみんみんを床に降ろし、2階に残したまま携帯電話を握りしめて1階に降りました。父が叫んでいました。何を言っているのか、よくわかりませんでした。激しく勝手口をドンドンと叩き、ドアノブをガチャガチャとひねっていました。心臓がバクバクし、全身が恐怖で震えました。どうしよう。誰か助けて。でも、誰もいない。父が表に回り、玄関を叩き始めました。叫んでいました。あまりの怖さに、110番をダイヤルしていました。声が震えているのが自分でもわかりました。住所さえうまく伝えられませんでした。「助けてください!早く、誰か来てください!」それしか言えませんでした。父はさらに窓をバンバン叩き、鍵が開かないことがわかると、外の網戸をバーンと激しくスライドさせました。110番の相手は「電話を切らないで。このままお話ししててください。今ね、警官はすぐ近くまで来ていますが、どのお家かわからなくて」と言ってました。「一番奥です!一番奥に2軒あって、母屋に父がいて、私はその隣の家にいて、父が私の家の外で暴れてるんです」とわけのわからない説明をしていました。
私の家の勝手口は素通しのガラスなので、カーテンをそっと開けてみると、目の前に父がすごい形相で立っていました。正確には座っていました。私が鍵を開けるまで待つ気らしく、居間の椅子を持ち出して、それに座ってこっちをにらんでいるんです。さらに恐怖で凍りつきました。そのとき、父が顔を横に向けたので、誰かが来たことがわかりました。警官でした。ほっとして涙がどっと出てきました。数人の警官が父を両側から支えて母屋の中に入れ、別のふたりの警官が私の家の中に入りました。事情を説明しているあいだも、外にいる警官が勝手口のノブをガチャガチャやるだけで、私は飛び上がってしまうほど、まだ心臓の動悸がおさまりませんでした。その夜は何をしでかすかわからないので危険ということから保護されることとなり、父は警察署に連れて行かれました。パトカーが出て行ったあと、残った警官に付き添われて、外に出て母屋の鍵をかけましたが、まだ手が震えていてうまく鍵が差込めなかったことを覚えています。気がついたら、パジャマ姿でした。警官が全員引き揚げて再び静かになったのは午前2時ごろだったと思います。
翌朝、友人Tに電話して来てもらい、母屋の中に入ってやっと一晩中つきっぱなしだった明かりを消しました。ひとりでは怖くて入ることができませんでした。誰もいないとわかっていても、それでも父の気配が残っている母屋にはひとりでは入ることができなかったんです。また胸がドキドキし、体が震えました。9時すぎ、介護関係でお世話になっている包括支援センターのSさんと一緒に警察署へ行きました。私が電話したとき、すでに警察から連絡を受けていたSさんはすべて把握してくれていて、とても心強く思いましたが、それでも私には父に会う勇気が出ませんでした。それで隣室に待機し、開け放たれた戸口越しに話を聞きました。父は私の家に押し入ろうとしたことは覚えていても、なぜそうしたかを忘れていました。夜中だったことさえ認識していませんでした。異常さを指摘されて沈黙し、「施設のようなところがあるなら入りたい」と言った、とSさんから聞きました。
父は警察署から直接、市内にある有料老人ホームに入所しました。衣類や身のまわりのものを運びましたが、まだ父とは会っていません。建物内で姿を見かけただけで体を震えて、気がつくと逃げていました。職員の方々が理解してくれて、「会わないほうがいい」としてくれているので助かっています。心療内科を受診してきました。自分が元気でいないと、これからのことに対処できないと判断したからです。
入所直後の健康診断で母に膵臓がんが見つかりました。心臓に重大な疾患を抱え、腎臓も悪い、糖尿病もある、という状況では積極的な治療は難しいでしょう。でも入所後の母はとても元気になり、明るく朗らかで、「負けないで」と励ましてくれます。きちんと介護できなかったことを謝りました。母は首を振って、「そんなことないよ、東京から帰ってきてくれて、どれだけ助かってることか」と言ってくれました。
写真はまだ母が杖をついて歩行できていた頃、3人で伊那地方を旅行したときのものです。それから現在に至る歳月は、長いはずなのにあっという間だったような気もします。もう1枚は日曜日の夕焼けです。これを撮ったときには横に父がいたのですが、もういません。
0コメント