母と過ごした最後の日々 その1




12月8日に母が亡くなりました。12月10日に通夜、11日に葬儀と納骨、諸手続きや支払い関係、いろんなことが怒涛のように過ぎていきました。母が亡くなるまでの顛末を記録しておきたいと思います。

今年の7月末、ずっと車椅子生活だった母は自宅にほど近いグループホームに入りました。自宅での介護がいろんな意味で限界を迎えていました。その入所時の健康診断で行われたCT検査で膵臓に腫瘍が見つかりました。8月、何度も母に私が勤務する静岡がんセンターの受診を勧めましたが、頑固に拒否しました。

「ここでずっと穏やかに暮らしたい。治療とか、そういうのは絶対にいや」

グループホームの職員の皆さんが優しく世話してくれて、つねに周囲に人がいる生活が気に入ったようでした。
ガサツな父の乱暴な介護、仕事だなんだで留守がちな娘が日に1回夕食を作るということでは癒されない孤独があったに違いありません。そうやって8月、9月、10月は本人の希望通り穏やかに過ぎていきました。その間に父の狂乱事件からの老人ホーム入所という大事件もありました。私が経験した恐怖に共感し、理解してくれたのは母だけでした。9月に職場のがんセンターの専門医にセカンドオピニオンをもらうべく面談していました。

「手術も抗がん剤治療などもできません。高齢でらっしゃるし、このまま経過観察するのがベストだと思います。余命はせいぜい半年ぐらいかと思います」

そう言われて帰り道に裾野市内でひとりでランチを食べ、窓から外を眺めながら、熱いチャイをゆっくり飲みました。意外なほど冷静でしたが、頭の中を「半年」という言葉が何度も駆け巡っていました。

11月8日、母の様子がおかしいと連絡を受け、施設の方が車を出してくれて、脳神経外科を受診して脳のMRI検査を受けさせました。急に意識が混濁したような感じになり全身の力が抜けてしまい、脳梗塞が疑われたからです。異常はなく、この足で内科を受診した方がいいと言われて、施設の人に電話して車で迎えに来てもらい、市内の病院の内科に向かいました。いろんな検査をしてもらったものの異常が判明せず、とりあえず点滴をしてもらいました。ソルデム1https://medley.life/medicine/item/3319500A3067。生命維持に必要な水分、ミネラル、糖分などを補給する輸液です。亡くなる瞬間までこれのお世話になるのですが、この日が最初の点滴でした。その後、少し元気を取り戻し、朝仕事に行く前に立ち寄って様子を見たりしましたが、介助されて朝食を食べている様子にとても安堵しました。実はその前に静岡がんセンターの緩和医療科の部長と面談し、がんの症状が出始めたら入院させてもらうお願いをしていました。15日の火曜日、施設に母を訪ねたとき、トイレの介助をしてもらって部屋に入ってきた母の顔に順光の日差しが当たり、恐ろしいほどの黄疸が出ているのを見て愕然としました。

がんの症状がではじめたんだ。ついにがんの猛攻が始まったと知りました。膵臓の腫瘍が進行して、胆道に触れれば黄疸、逆側にある神経に触れれば痛み。どちらかが出始めたら入院。事前にそう言われて、心していたことでした。施設の人たちは蛍光灯で見ていて、黄疸に気づかなかったようでした。唇がわなわなと震えるほど動揺しましたが、平静を装ってその日はふつうに母を会話して帰りました。しかし、戻るとすぐに入院を申し込み、ベッドが空き次第入れてもらえるようお願いしました。力なくぐったりし、スプーンさえ握れないことが多くなり、19日の土曜と21日の月曜も病院に連れて行って点滴をしてもらいました。食が細くなっていたので、点滴してもらうと少しは話ができる程度の元気を得ました。19日にはそれまで海外出張していた弟が来て、老人ホームから父を連れてきました。病院の待合室で家族が久しぶりに集まったことになりますが、家族できちんと会話したのはこれが最後でした。21日の月曜には点滴してもらっている病院からも「もう入院させないと無理でしょ?」と言われましたが、すでにがんセンターから連絡を受けて22日に入院させる手筈が整っていました。それを聞いて点滴を手配してくれていた若い医師が「あ〜よかったね!乗り切ったね!」と安堵した様子でつぶやいたのが心に残りました。

11月22日。この日のことは一生忘れません。
よく晴れて、青空をバックに富士山がきれいでした。写真は施設の母の部屋から眺めた、この日の朝に富士山です。母は世話になった施設の職員さんと富士山を眺めていました。緑内障が進行して目はほとんど見えなくなっていましたが、晴天であることは少なくともわかっていたようです。
介護タクシーに母と身の回りの物を載せて施設を出発し、自宅に寄ってもらいました。

「おかあさん、このあいだ植木屋さんに入ってもらったの。きれいになったから見てもらおうかなと思って」

これがもう最後だから、もう生きて帰って来ることができないから家に寄った、なんて言えないので、そんな言い訳をしました。それから近くのドラッグストアの駐車場にも寄ってもらい、そこから母が新婚時代に住んだ小さな家も見せました。でも、意識の混濁が始まっていた母にはよくわからなかったようでした。
それから青空の下、国道246号線経由で病院の緩和ケア別棟まで行きました。
この母の最後のドライブも一生忘れません。これほど必死で、心細くて、切なくて、悲しいドライブはこの先も経験することはないと思います。
道中、目が見えないはずの母が信号待ちのときにつぶやいた言葉も心に残りました。

「空が・・・いい色をしてるねえ」



玲子のカルペディエム

カルペディエム Carpe Diemは「今を生きよ」という意味のラテン語です。毎年、誕生日に外国のお友だちがこの言葉を贈ってくれて気にいりました。今は富士山の麓でミニチュアダックスのみんみんと暮らしていますが、40年ほど暮らした東京からのいわゆるUターン組です。通訳や翻訳(英語)を生業とし、今は地元のがん専門病院で医療スタッフの英語のお手伝いをしてます。ジャズ、ブラジル音楽、歌舞伎が好きです。

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