母を看取ったあと、美しい朝の眺め。
朝からずっと富士山がきれいでしたが、夕方に帽子をかぶりました。
葬儀の翌朝、窓に激突して死んでしまった小鳥。母のお供をしてくれたようです。
母が静岡がんセンター緩和ケア別棟に入院した11月22日、ただちに血液検査が行われました。
「この数値からするとほとんど肝臓が機能していません。おそらく転移しているか、新たに腫瘍ができたか。肝臓が機能していないために血中アンモニア濃度の数値が非常に高い異常値となっています。この状態で車椅子に座って車でここまで来たというのは奇跡に近い。よくこれまで施設で暮らせていたなというのが正直な感想です。施設の方はすごく頑張って介護されていたに違いありません」
医師からこのような話がありました。さらに、もうあと数日という段階にあるということも告げられました。
母はまだきちんと尿意を伝えることができていて、「トイレに連れてって」と意思表示をしました。
施設にいたときのように車椅子でトイレに連れて行ってやってもらえないかと頼みましたし、負担をかけないようにとベッド脇にポータブルトイレも用意されましたが、看護師さんふたりがかりでも、グダッと姿勢を支える力を失った母をトイレで用を足させるのには明らかに無理がありました。
「ご本人にも体力的に無理をかけますので、オムツをあてさせてください」
看護師さんにそう言われました。その前日に点滴を受けに行った病院で看護師さんとふたりで母をトイレに座らせたことが嘘のようでした。もう無理なんだ。無理になってたんだ。現実を突きつけられて、自分の認識の甘さを思い知りました。同時に、前日まで昼となく夜となく、グダグダになっている母の体を支えて、トイレで排泄させるという人間の尊厳をギリギリまで守ってくださった介護施設の職員の皆さんに、改めて深い感謝の念を覚えました。
その日から母は痛みを訴えるようになり、痛み止めが施されました。昼休みは職場を抜けて母の昼食の介助をしました。早めに売店でおにぎりなどを買い、毎日昼食は母の病室でした。最初はおかゆや柔らかいおかずなどが出されていましたが、母はどんどん食べられなくなっていきました。入院したその日からおなじみのソルデム1が24時間常時点滴され続けていたので、食べる量が少なくても最低限の水分などは補給されていました。
そうして迎えた11月26日の土曜日、皮膚科の部長医師からメールがあり、週明けまでに英訳が必要なアブストラクトがあるので頼みたいとのことでした。どうやら、月末に研究費の申請締め切りがあるらしく、ちょっと嫌な予感がしました。週末はずっと母の病室にラップトップを運び込んでアブストラクトの英訳にいそしんで過ごしました。母は私が病室にいる間は意識もあって、かろうじて会話もできました。
「玲子ですけど。わかる?」
「もちろん、わかるよ。いちばん、だいじ」
そうつぶやいてくれたこともあります。その後も毎朝、早めに出勤して母の病室に顔を出し、しばらく過ごしてからオフィスに向かいました。
「じゃ、仕事に行ってくるね。お昼にはまた来るから」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
気をつけて、って、廊下を抜けてエレベータで上がるだけなのに。
母親だから、仕事に行く子どもには、どんな状態であろうと「気をつけて」って言うんだな。
廊下を抜けたエレベータ前に窓に向かったベンチがあります。しばらくそこで泣きました。
痛み止めはたちまち麻薬の系統に変更されました。最初は弱めでしたが、徐々に量は増えていきました。入院して1週間め、母は入浴させてもらえました。ストレッチャーに横になったまま、体と髪を洗ってもらった後に、バラの花びらとゆずを浮かべた浴槽にリフトで入れてもらうんです。素晴らしい設備でした。バラの花びらは庭に咲いていたものをボランティアの方が集めてくださったものだそうです。すでに母は意識がなく、言葉を発することもなく、目を閉じた状態のままでしたが、看護師さんたちが優しく世話しながら声をかけ続けてくれました。私は見学していいと言われて浴室に入っていましたが、箱型の浴槽に横たわった母のまわりにバラの花が浮いていて、なんだか棺のように見えました。看護師さんたちはずっと笑顔で、目を閉じて横たわる母と記念撮影もしてくれましたが、私は作り笑いしかできませんでした。
皮膚科の論文抄録英訳を仕上げた直後、立て続けに口腔外科と呼吸器内科からも同じ依頼が飛び込んできました。あと2日以内に両方仕上げないと研究費申請に間に合いません。再びラップトップを母の病室に運び込んで仕事を続けました。仕事しながら、母が痛みをうめき声をあげるたび、ナースコールを押して看護師さんを呼び、痛み止めを増やしてもらったりしました。昼食はただの重湯になりましたが、アイスクリームは好きで比較的よく食べるので、メニューに加えてもらっていました。最初はカップ全部おいしそうに平らげていましたが、すぐにそれも受け付けなくなりました。12月1日、口腔外科も呼吸器内科も無事に研究費申請に間に合い、私は母が12月を迎えられたことに感謝しました。本当は11月中に命が尽きてしまうのではないかと思っていたからです。2日の金曜には東京から弟も来て、日曜遅くまでずっと病院に泊まり込んでくれました。もう母の意識が戻ることはありませんでした。でも、たぶん、私たちが付き添っていることはわかっていたと思います。
「母の部屋を片付けておいてくれないか?」
日曜に別れるとき、弟がボソっと言いました。私たちにはもう覚悟ができていました。5日の月曜日、奇跡的に母に意識が戻り、「みず」とかろうじて聞き取れる声で言いました。何回か水を飲ませ、昼食時にはベッドを起こしてアイスクリームを食べさせることもできました。3口だけ。それが最後の食事でした。私は仕事を早退して自宅に戻り、母がいつ戻ってきても良いように、少し片付けをしました。
その夜、午前3時に病院から電話がありました。来たか、と直感しました。あわてて服を着て、みんみんを外に連れ出して芝生の上でオシッコさせ、車で飛び出しました。顔も洗っていませんでした。途中、老人ホームに電話して父を拾っていきました。道中はずっとふたりとも無言でした。東京の弟に連絡がついたのは午前5時すぎでしたが、7時半には駆けつけてくれていました。家族でずっとベッドの脇に待機しました。脈が弱くなっていましたが、激しい呼吸は続いていました。胸が上下していて、それが続いているうちはまだ大丈夫だけど、息が止まる秒数が長くなったらそのまま心臓も止まることになると言われ、息がふっと止まるたびにハラハラしながら秒数を数えました。
火曜は全員が病院に泊まりました。東京から来た弟の家族と父は上のフロアの和室に敷いた布団で寝ましたが、私と弟は椅子で仮眠でした。私は2回家まで往復し、みんみんの世話をしましたが、もう無理と悟ってなんとか探した裾野市内のペットホテルに預けることにしました。水曜を迎え、私と弟は病室を出て父と母をふたりだけにして別れを告げてもらうことにしました。ところが、中から「頑張れ、まだ逝くな!」という父の絶叫が聞こえてきて、あわてて制止に入らなくてはなりませんでした。もうこれまでと見切り、父を老人ホームに送りとどけました。夕方、熱海に住む母のただひとりの妹にあたる叔母が駆けつけてくれました。
水曜の夜。叔母を和室に寝かせ、弟とふたりで寝ずの番をしました。最初は私が簡易ベッドに横になって少し寝かせてもらったのですが、午前1時半に目が覚めて弟と交替しました。母の胸はまだ上下していましたが、午前4時ごろ、呼吸のペースが変化しました。マラソンランナーのような小刻みで浅いペースになりました。
いよいよだなと思いました。弟を起こしたのが午前7時。それから1時間もしないうちに、母の呼吸が完全に停止しました。
その瞬間はとても静かで穏やかでした。レースのカーテン越しに、母に朝日が降り注いでいました。
空が青くて、風もなくて、朝の日差しに透明感があって、本当に美しい朝でした。
母を看取って、弟と叔母の3人で売店に行き、朝食を買って、1階のティールームで食べました。
弟は何本もせわしなく電話をかけたり、かかってきた電話を受けたりしていました。
私はぼんやりと外の美しい朝の庭を眺めました。飽くことなく眺めました。
とてつもない疲労感が押しよせましたが、同時になんとも言えない「やりきった感」に満たされていました。
「いちばん、だいじ」と言ってくれる人はもういません。でも、そう言ってもらえたことを胸に刻んで、これからの人生を丁寧に生きていきたいと思います。
0コメント