ここが檜町公園だった頃、よく昼休みに気分転換しに来ていました
今では安藤忠雄さん設計によるミュージアムがあったりします
今や六本木のミッドタウンも、かつては防衛庁の建物がありました
大学を卒業したらどうするか。
大学院進学を父親から速攻で反対され、かと言って父親の望む「静岡県の公立学校の教師」には絶対になりたくなかったことから、わたしはやむなく東京で仕事をする道を選びました。
男女雇用機会均等法施行前のことでしたから、地方出身の4年制大学卒の女子にとってはまさに氷河期。コネがない限り上場企業など諦めろ、総合職など望むな、せいぜい秘書が良いところと言われました。地方出身の同期の女友だちも大学名を問わず一様に惨敗で、田舎に帰ってプータローを決め込むお嬢様育ちの友人もいました。
そんな中、わたしは六本木のど真ん中にオフィスを構えるY国際特許事務所に職を得ました。
少数精鋭で優秀な弁理士たちを揃え、日本のみならず世界の一流企業を相手に内外の特許や実用新案の申請業務を幅広くやってました。
社長のYさんは40代前半ぐらいのやり手の弁理士で、彼の秘書見習い兼彼以外の弁理士さんたちの秘書として仕事をするということで採用されました。30代半ばぐらいのベテラン秘書Nさんの隣にデスクをもらいましたが、彼女の濃い化粧、香水、艶やかなファッションに、内心「六本木で働くって、こういうことなのか」と圧倒されていました。
正式採用は4月からですが、3月からインターンとして通い始めました。
社長のYさんや同僚の男性弁理士さんたちは優しく特許申請について、いろいろ教えてくれました。もちろんNさんもいろいろ教えてくれましたが、優しいというよりは厳しい感じ。社会人1年生なんだから知らないことが多くて仕方ない、と自分に言い聞かせ、注意されるたびに気をつけようと思っていました。
でも、やっぱり、何と言うか、何のやり甲斐も感じられず、日々が虚しくてたまりませんでした。
オフィスは六本木のロアビルの隣という華やかな場所にありましたが、それだけに安らぎが感じられる場所がなく、よく六本木交差点を渡って赤坂寄りのところにある檜町公園のベンチでぼんやりしては気分転換をしていました。帰宅時もわざわざ赤坂あたりまで歩いてみたり、「六本木ピットイン」に寄って顔見知りの「きくやん」や「タニさん」とおしゃべりしてみたり、そんなことで気を紛らわせていました。
そのうち、私は特許翻訳に興味が湧き、社長のYさんにやらせてもらえないかとお願いしてみました。
広々した社長室の大きなデスクの向こうでYさんは顔を曇らせ、「英語ができるだけでは特許翻訳はできない、工学や化学のような技術系の得意分野があった方が特許翻訳の道は開けるものなんだよ」と反対されました。
それでも、やる気があるなら教えてあげようとおっしゃってくださり、時々社長室で向き合ってコツを指導してくれたり構文の校正などしてくださいました。
ある日、同僚の弁理士さんのひとりで仲が良かったKさんから「なんか予定ある?帰りにちょっと一杯どう?」と誘われました。その席でKさんから驚きの話を聞かされたのです。
「僕ら、もう見ていられないよ。Nさんのイビリ」
え〜、わたし、イビられてたの!
世間知らず過ぎて、Nさんが厳しくするのはわたしが新人だからで、無知で至らないせいだと思い込んでいました。
「えっ、気づいてなかったの!?社長とNさんはずっと前からデキてて、もうすごい長い関係なんだよ。見ていればわかるかと思ってた」
バカだなあ。何にも気づいてなかった。
社長はもちろん妻子もち。安っぽいドラマ並みの不倫関係で、Nさんはいわゆる愛人。
特許翻訳に興味あるなんて生意気言っちゃって、しばしばふたりきりで社長室で過ごすようになったわたしに、Nさんは激しく嫉妬し、「指導」と称するイビリに拍車がかかっていたらしいのです。
Kさんは「僕だって、ある程度仕事ができるようになったらあそこは辞めようと思ってる。あそこはずっといるところじゃないよ。まだやり直せる。深入りしないで辞めたほうがいい」と真顔で忠告してくれました。
それから悩みが深くなり、確かにNさんの当たりは厳しいなと実感するようにもなり、仕事に行くことがイヤになっていきました。
ある日の夕方、早めに帰宅して夕食の支度をしていると電話が鳴りました。社長のYさんでした。
携帯電話なんか無い時代のこと、「近くの公衆電話からかけているんだけど、ちょっと出られませんか?」とのことでした。
アパートの近くの目黒通りまで出ると、Yさんの黒いBMWが停まっていました。ピカピカでした。
わたしが助手席に乗ると、Yさんはゆっくり車を走らせて、駒沢公園の近くまでいきました。
「最近、元気がないね。ちょっと心配になりました」
「・・・」
「Nさんのことはね、申し訳ないと思っている。そろそろ辞めたいと言うので、きみに来てもらって引き継いでもらうつもりだったんだが、なかなか辞めるって話にならないんだよね」
「はあ・・・」
「でもね・・・僕はね、きみが好きになってしまったので・・・」
「・・・!」
Yさんはそう言って助手席のわたしの手を握り、「ダメですか?」と言いました。
「ダメです」
わたしはきっぱり言い、その瞬間にY国際特許事務所は辞めようと固く決意したのです。
わずか半年。そのあと英会話学校の講師に採用されました。
Y国際特許事務所はその後、横浜の北部あたりに移転したようです。
あの頃、セクハラなんて単語さえありませんでした。
上司が女性社員をそういう目で見るなんてことが、これほどよくあることだったとは、世間知らずの社会人一年生にとっては衝撃でしかありませんでした。
ついでにパワハラなんて単語もない時代。「個人的な嫉妬でイビってました」なんて、パワハラのカテゴリーにも入らないくだらなさです。
大学を出ていきなり日本の社会のもっともダメな部分を、まるでドラマみたいな状況で思い切り体験したということは、まあ、今となれば良い社会勉強したと言えなくもありませんが。
人として、経験しないで済むにこしたことはありません。
檜町公園は今や東京ミッドタウン。
大人っぽくて割と好きなところです。訪れるたび、ベンチで鬱々としてくすぶっていた22歳の日々を思い出します。
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