第57回グラミー賞の発表があり、ジャズ部門でピアニストのChick Coreaが受賞したと知りました。たしか一昨年も受賞していると記憶しているほどの「常連」であり、いわゆる大物ですから珍しいニュースでもないのでしょうが、ファンとしては嬉しいことです。それをきっかけに昔のアルバムを聴いてみました。いつの時代にも色褪せることのない新鮮で完成度の高い、彼ならではの音楽世界が広がります。素晴らしいです。
十代の私は日本のいわゆる「歌謡曲」とか「フォーク」といったジャンルにはまったく魅力を感じることができず、子どもの頃に友だち付き合いのために「グループサウンズ」なるものに興味があるかのように振る舞ったこともありましたが、本心は「どこが良いのか?」と惚れ込むことができずにいました。その後、ユーミン全盛時代や山下達郎の台頭(?)に同じように友だちがらみで巻き込まれましたが、やはりどこかで醒めていました。「荒井由美」時代のユーミンは結構聴き込みましたが。
そんな中、大学入学直後に出会ったChick Coreaにガツンという衝撃を受けました。生協のバーゲンで買った「The Leprechaun (妖精)」というアルバムでした。ジャズのジャの字(?)も知らない頃でしたが、このアルバムから音楽の自由さ、自由になることの歓び、自在に展開していきながら全体の構成のバランスがとられる巧みさ等々を感じ取り、そうした魅力の虜になりました。このアルバムに参加しているミュージシャンをたどり、Chick Coreaが影響を受けた先人やライバルをたどり、ジャズに耽溺していきました。
タモリさんがいみじくもおっしゃっているとおり、「ジャズという音楽」のカテゴリーなんて実は存在しません。「ジャズをやる人間」がいると、彼らがやることがジャズになるのです。ロックの勢い、ブラジル音楽の複雑さ、津軽三味線のスリルさえもジャズになってしまう。それらがグルグルと展開していって、自在で独自の別の音楽に変身していく面白さには、中毒性の魅力があります。時代はまさに垣根を超える「クロスオーバー」がもてはやされているころでした。私はそのまっただ中にいて、その時代が差し出してくれたすべてを吸収したのだと思います。
健康上の理由から体育会アイススケート部では選手からマネージャーへと転身し、時間ができました。それで「ひとりジャズ研」と称して、ジャズ喫茶からライブハウス、何らかの生演奏の場を求め、いろいろなところへ首を突っ込んではさまざまな人たちの演奏する音楽を聴きまくりました。安い輸入盤のレコードも買いあさりました。2013年に東京の住まいを引き払うとき、このコレクションはすべて下北沢の中古レコード店の店主が買い取ってくれました。マニアックな品揃え(笑)に仰天しておられ、かなりの値をつけてくださったものもありました。この店なら音楽好きの手に渡ってくれるのですから本望です。
コンサートへ行くときは一番安いチケットしか買えません。二階席の一番奥、断崖絶壁の頂みたいなところから、はるか下方の谷底のようなステージに小さく見えるミュージシャンに熱い視線を注いで彼らの演奏を楽しんだものです。もちろん、Chick Coreaや彼のバンド、Return to Foreverの演奏も来日公演があるたび絶壁から堪能しました。その後、今はもうない六本木ピットインでPat Methenyが演奏したとき(記憶は定かではないのですが)でしたか、すし詰めの客席で、なんと隣に奥さんでやはりミュージシャンのGale Moranを伴ったChick Coreaが客として座ったので、仰天したこともありました。
それから長い歳月が流れ、いろいろな経験を経て、私はフリーで通訳や翻訳の仕事をするに至るわけですが、Return to Foreverの再結成ツアーのときでしたか、Chick Coreaの雑誌と新聞取材の通訳を依頼されたのです。私は懐かしいECM時代の傑作「Return to Forever」のアルバム・ジャケットをデザインしたTシャツにジャケットを羽織って指定されたホテルへ向かいました。再結成したバンドより前に出た、Airto Moreira、Flora Purimが参加しているブラジル色の強い大好きなアルバムです。このとき、彼自身から座るサイドを指定されました。そういうミュージシャンは多いのです。いわゆる「聞こえ」の問題で、一種の職業病みたいなものでしょう。おずおずと指定された側に腰掛けたときでした。
"Come closer. Come, come closer."
彼から優しく、そう言われてはっとしました。単純に、声が聞き取りやすいように「もっと近くに寄ってくれ」と指示なさっただけなのですが、私には学生時代からこの日に至るまでの道のりのメタファーのように聞こえたのです。彼のアルバムに出会ってから、二階席の断崖絶壁から、すぐ隣に座って仕事をするに至るこの瞬間まで、ずっと「こっちへおいで。もっと近くにおいで」と彼に導かれて来たような気がしていました。
もちろん大感激なのですが、プロとして仕事をする場所にいる以上、そういう感情は二の次です。ただ淡々とやるべきことをやる。求められているのはそれだけで、それ以上は必要ないこと。一緒に撮っていただいた一枚の写真。これだけが唯一の「それ以上」のことでした。プレゼント用の何枚もの色紙にサインする手を休めて、一緒にフレームに収まってくださったChick には、万感の思いを込めて感謝です。
0コメント