黙ってしまうとき

何年も前のこと、ある人(この地元在住者です)に母の認知症についての悩みを打ち明けたことがありました。さまざまな出来事が重なり、さらに膵臓がんが見つかり、わずか数ヶ月後に母は他界したのですが、その前に複雑な胸の内を漏らしたとき、「痴呆が進んだの?」という想定外の問いかけがありました。


認知症は脳の病気です。一方、「痴呆」というのは強い蔑みの意を含み、おいそれと使うべきではない単語です。このご時世にそうした認識もないとは、大きな衝撃でした。でも、黙ってた。何となくごまかして受け流しました。


今年の春、別の友人(やはり地元在住者です)が運転する車に同乗していたとき、通りかかった新しいお店について、なかなか良い「お肉屋さん」だと説明しました。彼女はうなずき、その後別のスーパーの話になりました。彼女はそこの豚肉がとても美味しいと絶賛しました。わたしはさっきの新しい肉屋で売られているものも新鮮で優れている上に自宅から近いので、そちらで買うことが多いと応じました。

「でも、豚肉だよ!」

その強い口調に面食らいました。どうやら、彼女は新しい肉屋について、勝手に「焼肉屋」であると思い込んでいるようでした。けれども、否定も説明もしませんでした。黙ったまま受け流し、窓から外の景色を眺めていました。



こういうとき、もはや、説明に時間とエネルギーを費やすのは無駄な気がします。

些細なことだけれど。ごく小さなすれ違いだけれど。わかってもらおうという気が失せるのは、表面だけわかってもらっても仕方ないという諦めがあるからです。若ければ、言葉を尽くして溝を埋めようと努力するかもしれませんが、成熟した人間にとっては時間の無駄です。


説明しなくても承知していて、傷つけるような単語は決して口にしない。日常的な話題でもきちんとお互いの話を聞く。そういう友人が少しいるだけで、もう十分かな。

玲子のカルペディエム

カルペディエム Carpe Diemは「今を生きよ」という意味のラテン語です。毎年、誕生日に外国のお友だちがこの言葉を贈ってくれて気にいりました。今は富士山の麓でミニチュアダックスのみんみんと暮らしていますが、40年ほど暮らした東京からのいわゆるUターン組です。通訳や翻訳(英語)を生業とし、今は地元のがん専門病院で医療スタッフの英語のお手伝いをしてます。ジャズ、ブラジル音楽、歌舞伎が好きです。

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